戦後80年、マルホ創業110周年を迎えて、昭和20年8月15日の想いや記録をまとめた「昭和万葉俳句集」を紹介
マルホ株式会社は、1915年、大阪の地で創業しました。創業以来、100年以上にわたり着実に歩み・発展してきた当社は、医薬品を通じ人々の日常生活に寄り添い続けてきました。
現在、皮膚科学領域のスペシャリティファーマとして、ミッション「あなたといういのちに、もっと笑顔を。」を掲げ、医療用医薬品を中心とした事業を幅広く展開し、社会に貢献しています。
2025年は、戦後80年という歴史の節目と当社創業110周年です。
マルホは、1985年に「あの日」(昭和20年8月15日)の想いと感情を表現した俳句を、全国から集めてまとめた「昭和万葉俳句集(10941句)」と、それぞれの句に込められた一人ひとりの記憶を記した「昭和万葉俳句前書集(国内1729句/国外2391句、計4120句)」を発行しました。これらの背景にあるのは、生命(いのち)を大切にする想い。時代を超えても決して変わることのないマルホの価値の根源です。この度、持続的な成長の基盤>社会>社会貢献のページで、「昭和万葉俳句集」「昭和万葉俳句前書集」についての解説に加え、デジタルブックにて抜粋した80句をご紹介します。
広島の原爆後、続々と京都医大病院に青ぶくれの患者が来て、原子爆弾とは知らされず、栄養失調の浮腫とは違う溺死者の如き全身浮腫に、地獄の使者かとばかりいぶかり、手当てをしました。暑く長い八月のむっとする病室内で、不思議なほど人達は沈黙しておりました。
夏雲か 北山か視る 片方の眼
徴兵検査前の私は、農業に従事中。郷土防衛隊結成の召集を受け、その朝生家を出発、交通途絶、敵機飛来の中を四街道駅より佐倉市に馳せつけたが、正午の玉音放送によって防衛隊は瓦解離散した。私はその渦中にいた。
少年の笑顔が泪 夏終わる
昭和二十年八月十五日の夜、沖縄の空襲警報が発せられ傍受。大分航空基地からあえて飛び立った数基の「彗星」艦爆、最後の特攻隊である。私は、基地内にある防空壕内の通信所で、茫然たる思いでこれを聞いた。失意の中の決別であった。
炎天に 還らぬいのち 飛び立てる
私は広島県の山合いの傷疲軍人療養所(現、国立療養所広島病院)で終戦を迎えた。病棟をよぎった閃光のあと、しばらくして西の空に上がったきのこ雲が原爆雲であった。その療養所には今も友人が療養を続けている。入院費用は未帰還者...援護法を適用されて。
美しきかりき 原爆雲の映え
広東省北方警備中、転進下命南昌に向け夜行軍。南昌北方約五里の部落で終戦を知る。作戦中各人には常時自決用として手榴弾一個が渡されていた。終戦時何人かの将校が自決した。自分は一人息子(三歳)の写真だけは肌身離さず持っていた。
軍規説く 隊長吃る 終戦日
当社の持続的な成長の基盤>社会>社会貢献のページにて、「昭和万葉俳句集」「昭和万葉俳句前書集」について解説しています。