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第1回:皮膚科医の私がALSを発症してから(後編 皮膚科医の私がALSを発症したその日から)

(2024年3月4日掲載)

私は北里大学病院で皮膚科医として勤務しながら、「毛包幹細胞」について研究をしており、2015年4月に研究のため、アメリカのUniversity of California, San Diego (UCSD)に留学しました。

留学前に同期の皮膚科医から、留学祝いとして万年筆をプレゼントしてもらい、留学中は毎日それを使って文字を書いていました。しかし、7月頃から右手に万年筆の重さを感じるようになり、少しずつ文字が書きづらくなってきて、自然とお気に入りの万年筆ではなく、軽いボールペンを使うようになっていることに気が付きました。当初は疲れているだけかと思い、さほど気にしていませんでしたが、8月になっても治らず、右腕が左腕よりも細いことに気が付きました。

さすがにおかしいと思い、自分の症状について調べ始めました。ちょうど趣味のサーフィンで首を痛めていたこともあり、UCSDの同僚の整形外科医にも相談し、頸椎症や椎間板ヘルニアなどの可能性を考えMRIを撮りましたが、明らかな異常はありませんでした。そこでUCSDの神経内科を紹介され、診察してもらうと、すぐにALS専門医に紹介されました。その時点で頭が真っ白になっていましたが、さらに専門的な話を英語で説明され、何がなんだかわかりませんでした。ただ最後に、「ALS専門医のあなたからみて、私はALSだと思いますか?」と聞くと、「多分ALSだろう」と言われたことだけは、はっきり覚えています。その瞬間、後頭部をハンマーで殴られたような衝撃が走りました。事態が飲み込めず、ただただ呆然としていましたが、徐々にその診断の重さを理解して、気がついたら帰り道で号泣していました。

当時私は34歳で、2歳になる息子もおり、これからのことを考えると、恐怖と絶望で胸が張り裂けそうでした。ただそんななか、妻だけは気丈に振る舞い、私を支えてくれたのでなんとか正気を保つことができました。
まだ診断が確定したわけではないため、急いで帰国して精査しました。その後、あらゆる病院で検査するも、なかなか確定診断がつかず、さまざまな診断名を言われ、そのたびに一喜一憂する日々が続き、精神的にかなり疲弊していきました。

なかなか診断がつかないまま何もせず待っているのもつらいので、なるべく早く仕事に復帰しながら精査を続けていくことにしました。復帰するにあたり、病気のことを同僚たちに伝えたほうが良いのかどうか、すごく悩みました。同僚たちも医師なので、ALSという病名の持つ意味や重さを知っています。しかし同僚たちは私がアメリカで働いていると思っているので、何も言わずに復帰してもいろいろ聞かれるだろうし、言わなくても人伝いに知ることになるでしょう。またのちのち同僚たちに迷惑をかけてしまうでしょうし、助けてもらうことも多いかと思いました。
そう考えたら、自分の口から同僚たちにしっかりと伝えておいたほうが良いと思い、精査のためにアメリカから一時帰国したタイミングで医局に行き、医局の医師たちが全員集まるカンファレンスで自分の症状や病名を皆に伝えて、帰国する経緯を報告しました。
正直、緊張しすぎており、何を話したのかあまり覚えていないのですが、深刻な事態であることは伝わり、重苦しく、まるでお通夜のような雰囲気になったことは覚えています。

結局ALSと確定診断されたのは、症状が出現してから9ヵ月も経った、2016年4月のことでした。そのときには右腕以外にも症状が出現しており、ALSの診断に納得したのを覚えています。

ALSと確定診断がついた後は、つらい日々が続きました。右手から動かせなくなっていったため、まず自分の専門分野である手術ができなくなったことがショックでした。また自分だけこれから過酷な人生を歩んでいかなくてはならないことを考えると、同僚たちとも、どんな顔で話したらよいのかわからず、自然と距離を取るようになり、孤立していきました。
右手と共に左手も上がらなくなってしまったときは、ご飯を口まで持っていけないため、お昼は一人で診察室の机の上におにぎりを置いて、顔を机にこすり付けながらご飯を食べていました。また、歩くこともできなくなっていたので、電動車椅子で通勤し、一人ではトイレにも行けなかったので、朝から絶飲食をして、家に帰るまではひたすらトイレを我慢していました。

そんな自分がときどき無性に惨めになり、誰もいない診察室で一人で泣くこともありました。
それでも私はこの仕事が大好きで、限界まで現場で働いて、直接患者さんを診療したかったのです。

パソコンが打てなくなると、音声入力装置を使ってカルテを書きました。最後は声が出しづらくなっていましたが、後輩たちが自分の手となり声となってペアで診療してくれたため、なんとか診療を続けることができました。
患者さんたちからもたくさんの励ましのお言葉やお手紙をいただき、同僚の医師たちが最後までサポートし続けてくれたおかげで、声がなんとか出せるうちは限界まで仕事を続けることができました。

今振り返ると、短い間でしたが全力でやりきった臨床医人生だったなぁと思います。それもすべて、医局の仲間たちや患者さんたちが支えてくれたおかげです。皆さまありがとうございました!


当時患者さんたちからいただいた手紙の一部です。

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