2023/10/30

創業者
木場栄熊と
マルホ

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マルホは、1915年(大正4年)に大阪の地で「マルホ商店」として誕生しました。以来100年以上にわたり、医薬品を通じて皆さまの健康に貢献してきました。その根底には、常に創業者である木場栄熊(こば えいくま)の「薬で社会に貢献したい」という想いがありました。

木場栄熊 -日本の医療の近代化を目指し渡米、マルホ商店を創業

医薬への想いを胸に、単身アメリカへ

木場は1875年、明治時代が始まって間もない頃に鹿児島県国分市(現在の霧島市)に生まれました。当時は政府によって政治や経済、教育など、あらゆる分野で西洋近代化を推し進められていましたが、まだまだ旧幕府時代の様相が残っていました。
木場は成長とともに薬学に興味を持ち、次第に「医薬によって日本の社会に、人類の幸福に貢献したい」と強く思うようになりました。
1898年に東京薬学校(現在の東京薬科大学)を卒業した木場は、薬剤師の資格を取得。いくつかの薬局で勤務したのち、東京に自身の薬局を開きました。
それでも、木場の中にはある想いがくすぶり続けていました。

-これからの時代、世界の医薬の知識を吸収しなければ。

当時の日本は、薬をつくる技術が発達しておらず、海外からの輸入に頼っていました。また、政府によって西洋医療の普及が推進されていたものの、医薬品も含め高価であったことから、多くの人々は和漢薬や民間医療などに依存していました。
このような環境のなか、日本の医療の近代化を夢見た木場は、26歳になった1901年に単独でアメリカに渡りました。

木場栄熊

アメリカでの学びと出会い

当時の日本では、薬の処方も調剤も医師が行う「医薬兼業」が一般的でした。一方アメリカでは、薬の処方は医師、調剤はより専門的な知識を持つ薬剤師が行う「医薬分業」が原則であり、医薬品の適正な使用と安全性の確保に注力していました。

このことに強く感銘を受けた木場は、後の日本の新聞取材でも日米の薬剤師の違いに触れるなど、あらためて日本の医療には近代化が必要性だと強く説きました。
また木場はアメリカで、後に設立するマルホ商店に関わる多くの人物とも出会いました。
その中のひとりである小西喜三郎は、自身が営む医薬品の商社に木場を誘いました。これを快諾した木場は、帰国後の1910年に大阪・道修町にある小西喜商店に入店。独立までの5年間、貿易業務の責任者を務めました。

サンフランシスコ大地震のあと水害地を訪ねる木場(1905年)

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道修町は、寛永年間(1624~1644年)に堺の豪商が薬種商(やくしゅしょう)を開いたことをきっかけに、日本有数の「薬のまち」として発展していました。小西喜商店も江戸時代から続く老舗の薬種問屋でした。

小西喜商店 店内既に電話が架設されています。右手前が木場

小西喜商店 外観道修町の中でも早くから自転車を活用していました

マルホ商店の誕生

Mulford社 外観

当時Mulford社の社員が使っていた薬の見本が入ったバッグ

1913年、木場は小西とともに業界視察で訪れたアメリカで、大手製薬企業H.K. Mulford Co.(Mulford社) (現在のMerck & Co., Inc.)を訪問しました。
同社製品の日本における販売権について交渉が成立し、1915年に同社の日本代理店契約を締結。同年7月、大阪・道修町に「Mulford(マルフォード)」にちなんだ「マルホ商店」を設立しました。木場栄熊、40歳の頃でした。

当時は第一次世界大戦のさなかで、欧米、特にドイツから日本への医薬品の輸入が途絶えていたため、アメリカの医薬品を仕入れることができるマルホ商店の創業は、人々にとって大変意義のあるものでした。

マルホ商店は、Mulford社の梅毒の検査薬を皮切りに、陣痛促進剤や咳・痰の薬など、34品目の医薬品を日本に輸入し、販売していました。また、薬の製造と卸業を兼ねていて、店舗を通じて医師と一般家庭に薬を提供するという営業スタイルをとっていました。これは木場がかねてから日本の医療の近代化に必要性を訴えていた「医薬分業」を実現するものでもありました。

その後も、木場はスイスやアメリカ、フランスといった欧米の製薬会社と積極的に提携し、優れた医薬品を日本に輸入して販売することで、人々の日常生活の質の向上に貢献しました。

梅毒皮膚反応薬「ルエチン」広告(1915年)

鎮咳去痰剤「コウフローゼン」広告(1916年)

当座帳(帳簿)カタカナのハイカラな薬名が並んでいます

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木場は “薬剤師界きってのアメリカ通”として知られていていました。何度もアメリカに訪れ、吸収した新薬の知識を日本に積極的に紹介するなど、パイオニア精神にあふれた人物でもありました。また、小西家とともにたびたび欧米に薬業視察の旅にも出ていて、その様子が新聞に掲載されるなど、業界からもその動向が注目されていました。

奈良で開かれた関西医師大会の集合写真(1917年)後列左から2番目が木場

欧米薬業界視察中、ピラミッドの前で(1936年)右端のラクダに乗っているのが木場

木場は、MR(医薬情報担当者)の草分け的存在でもありました。当時、まだ数が少なかったMRは、最新の薬の情報を届けてくれる存在として医師に重用されていました。フロックコートに身を包み、口髭を蓄え、人力車で移動するのがトレンドのスタイルでした。

マルホ商店からマルホ株式会社へ

合資会社化と成長

1920年、これまで個人経営であったマルホ商店は、木場を含む3人の出資による合資会社となりました。以降、マルホは今まで以上に多くの医薬品を取り扱うようになり、大きな成長を遂げます。

左:完全栄養料「オルバチン」 ディスプレイ
右:過酸化水素歯磨「カロッキス」 ディスプレイ

当時のマルホの中核製品となったのが、ドイツのDR. KADE Pharmazeutische Fabrik GmbHの喘息治療注射剤「アストモリジン」です。
第一次世界大戦が終結し、ドイツの医薬品の輸入が再開し始めた1921年に、マルホは同社の副代理店となり、翌年より「アストモリジン」を日本で発売しました。
即効性に優れ、また効き目も高かった「アストモリジン」は医師に重宝され、終売となる1977年までの60年近くの間、多くの患者さんの治療に役立ち続けました。

喘息治療注射剤「アストモリジン」

合資会社になったマルホ商店
店舗外観

子どものマネキンを使ったユニークなディスプレイも

マルホの帳簿を提げる子ども

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1917年、マルホ商店は大阪市東区(現在の中央区)に移転。1925年に、隣接する区画に「マルホファーマシー」を開局しました。2階に事務所、1階に薬局とカフェテリアを併設するアメリカ式の通称「ソーダ・ファウンテン」と呼ばれる構造のドラッグストアです。
1階では医薬品を含むさまざまな商品が総ガラス張りのショーケースに並び、カフェテリアで冷たいジュースやマルホ特製のアイスクリームが提供されるなど、周囲のビジネス街にふさわしいハイカラな店として話題になりました。

マルホファーマシーの薬局調剤室

出産用具も取り扱っていました

株式会社化と戦時下の解散

第一次世界大戦後、日本でもようやく医薬品の国内生産が本格化し、マルホ商店も輸入品にかわる国産品の製造研究を進めていました。

1931年に鎮咳去痰剤「コフ」の国産化に成功し、咳止めシロップ「コフ舎利別」を発売。翌年には「モスキトン」も国産化され、蚊よけクリームとして人気を博しました。 当時は1929年に起こった世界恐慌が日本経済にも深刻な影響を与えていて、マルホもその例外ではなかったのですが、この国産化の成功を契機に活況を取り戻し、新製品を次々と投入することとなりました。

また1937年に日中戦争が始まったことをきっかけに、医薬品を含むさまざま産業に対する統制が強化されました。このような統制下にあってもマルホ商店はさまざまな製品を発売。日本国内だけでなく、満州の病院に不足する医薬品を届けるなど、現地の要望に応え続けました。

1939年12月には株式会社マルホ商店を設立し、翌1940年には大阪府内にマルホ製薬工場を竣工しました。

国産化に成功した咳止めシロップ「コフ舎利別」 広告(1932年)

感冒吸嗅剤「バポサン」 広告

止血剤「フィブロ元」の広告(1930年)

上:マルホ製薬工場の玄関(1943年)
左:マルホ商店と隣接する商店の合同記念札撮影(1941年)

左・上・右:蚊よけクリーム「モスキトン」 ユニークな広告(1932~1933年)

結核性疾患治療剤「スクナ」 広告(1941年)

咳止めボンボン「ブロンキス」 広告(1938年)

強力食欲促進消化剤「パパヨスターゼ」 広告(1941年)

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ゲルトルード・ジーグムンド氏(1940年)

当時のマルホの研究室に、ヨーロッパから来た一人の科学者がいました。ゲルトルード・ジーグムンドという名のドイツ人女性で、ベルリンの大学で化学を学んだ後に来日。兵庫県にラボ付きの自宅を構えながら、マルホで研究生の指導にあたっていました。
当時、大阪にたった一人のドイツ人女性ということで話題になり、新聞にも取り上げられました。

1941年から始まった太平洋戦争をきっかけに、重要軍需品の増産に総力を結集するため、政府による企業整備が強く進められました。この企業整備は、あらゆる産業に及ぶ大規模なもので、多くの企業が統廃合されました。
製薬企業も例外ではなく、1942年にはマルホを含む製薬企業7社が発起人とする合同会社『和協製薬株式会社』が発足し、翌1943年にはマルホ商店を解散することとなりました。

マルホ商店解散時の従業員一同(1943年)

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和協製薬株式会社が取り扱う製品は、所属する製薬企業41社が販売していた医薬品のうち国に重要と指定された400以上の製品で、マルホ商店の製品もいくつか販売されていました。

和協製薬の「ネオ・コフシャ」
(咳止めシロップ)

和協製薬の「スクナ錠」
(結核性疾患治療剤)

和協製薬の「モスキトン」
(蚊よけ・かゆみ止め)

和協製薬の「カンホイス」
(皮膚のあれ・ひび・凍傷薬)

マルホ商店再建へかけた想い

再建のための後継者探し

1945年8月、太平洋戦争が終結。まだ混乱する社会の中で、木場は、一日も早いマルホの再建を目指していました。
しかし、再建の要となるKADE社は敗戦国であるドイツの企業であり、木場には同社と連絡を取る手段がありませんでした。ところが、偶然にもドイツと関わりの深い旧知の友と再会したことをきっかけに、同社との交流が再開。終戦から4年経った1949年、木場はついにマルホ商店株式会社を復活させました。

復活はしたものの、マルホの本格的な経営の立て直しには多くの時間と資金、体力が必要でした。当時74歳と高齢で、体調もすぐれなかった木場は、自身に残された時間を考え、マルホを安心して委ねられる人物、遺志を継いでくれる人物を探しはじめました。
マルホを一企業として成功に導くだけでなく、医薬によって日本の社会に、人類の幸福に貢献するという意志と力を持った後継者を…。それが木場栄熊の、マルホ商店再建にかける最大の夢でした。

そのころに出会ったのが、後にマルホの経営を確立させた、高木二郎(たかぎじろう)でした。
高木は、前述の木場の旧知の友に紹介され、1950年マルホに入社。木場が経営から退いた翌1951年には、代表取締役社長としてマルホのすべてを託されました。
そして2年後の1953年11月、木場は兵庫県西宮市の自宅で79年の生涯を閉じました。

1951年に大阪市中央区に移転後、正式に掲げられたマルホ商店の看板

「薬で社会に貢献したい。」日本の医療の近代化を夢見て、激動の時代を走りぬいた木場の想いは、100年を超えてなおマルホに受け継がれています。

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