~中国地方~ 終戦の当日は、鳥取県美保海軍航空隊、(現、米子空港)に在り、神雷特別攻撃隊勢部隊桜花隊に海軍二等飛行兵曹として服務中、航空基地付近の特設兵舎西側(砂丘付近)の松林に集合して、終戦の詔勅放送を拝聴する。省をしていました。空襲は受けなかったが、広島から汽車で原爆被災者が毎日到着、終戦を知り、身が宙に浮いた思い、何とも表現しかねる心境でした。しかし、将来に対する情熱だけは消えませんでした。校合の半分を呉海軍工廠分工場として使用。私共の学年は、学内において双眼鏡の生産に従事。当日だれが持ち出したのか、青酸カリを各々ポケットにしのばせ、アメリカ兵の来る前にと死を覚悟したのを記憶している。 私は徴用先から実家のあった広島市に帰り、被爆して全身火傷で瀕死の母に収容所で付き添っていました。数年分の衛生材料が旬日で費消され、充分な手当てのできないまま終戦を迎え、看護婦は「何のために看護してきたのか」と手当ても放棄しました。途中被爆、九日に死亡。八月三日に生まれたばかりの乳呑み子を抱えての悲しみを、ぐっと押えて返す毎日でした。戦友死にてひと月戦終りたり原爆やまだ生きていて蛆垂らす夏草や覚悟の薬にぎりしめ医薬盡き被爆の母に蛆涌けり終戦日乳呑子父の死を知らず 当日は、広島県安佐郡安古市町字安の親戚の家に身を寄せていました。夫は八月六日出勤の 敗戦当日は岡山県赤磐郡瀬戸町瀬戸、県立瀬戸一局等女学校内にいた。上級生は水島へ動員。 昭和二十年八月十五日、島根県浜田市の親元に、京都大学工学部の学生として、夏休みの帰
元のページ ../index.html#9