月十五日、母は警報がならないと喜びこれからどんな世になるか、長生きして見たいよ、と言った言葉が忘れられない。しかし母はテレビさえ知らずに……。架で運ぶ。腸捻転の手術は重大放送で延びた。私が手術に立合う。つやつやした腸が出てきた。病室は昼も南京虫がいた。祖母と母とのおむつは断水のため川で洗った。得た。母一人娘一人の生活だったので、狂乱となり教職も捨てた。家庭が恋しく、ひとり暮らしの陸軍中将夫人について兵庫県揖保郡龍野町へ移り、終戦となった。ジオで玉音放送を聴く。当時の職業は、公立高校の理科の女教師でした。出征した夫の生死は不明。三年後に北部ルソン島バラスバラスにて米軍の艦砲射撃にて戦死との公報。しかし毎日帰還を待っていました。戦中は生徒を連れて。陸軍飛行場建設の勤労奉仕に出ていました。の陛下の放送を聴く。青年将校達は楠正成ゆかりの千早城に籠り、最後の抵抗をとの声もあった。八月十五日現在の平和を噛みしめる。母と娘に八月眩し仮住居蓬長け服着るいのち担架中片蔭のままごと訛の西東凶のみ出る夫へのみくじ夏神社村人の別れの盃や夏の月 本土防衛のため、紀伊半島御坊地区に駐屯。連絡将校として、道成寺の司令部において終戦 終戦当時の住居は、大阪市阿倍野より疎開して奈良県大和郡山市旭町。家で老父と二人でラ 昭和二十年二月十日の東京大空襲で母は戦災死。私は学童疎開の引率で茨城県にいて命を 昭和二十年私は満十八歳、家も動員中の工場も全焼。旭区大宮町に落ち着く、腹痛の母を担
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