残りました。年八月八日午前、米軍の大空爆により、一挙工廠(工員六万人)潰滅、幸いにも生存。死亡者の収容、負傷者の世話をなす。臨時病棟廊下において、終戦放送の玉音を拝す。 学徒動員。秋田県海軍派遣隊長。沿岸警備及び燃料自給のため、松根油採り指導。ドラム缶二万本確保のため三重県塩浜海軍燃料廠と交渉中終戦。急遽サボタージュ中の北陸線を避け、東京経由にて、帰秋。全員集合のうえ解散。日本、中部方面に来襲するB29敵爆撃機は、敵機との戦いであった必ず琵琶湖上空に集結する、それを迎え撃って……。生の心は反米怨念から坐折消沈の間を激しく揺れたが、その根底には、逃れる術もない死と隣り合わせの餓えがあった。愛機燃ゆ富岳にうるむ秋茜軍熄み蚤の三河を去らむとすドラム罐のみゴロゴロと終戦日電灯のあかあかと照り火蛾舞へり餓えいて蝉の幼虫掘れば長し玉音 大阪市で被災、豊中にいた。私は御堂筋の某社に勤め、戦災だからと我慢の日々だった。八 敗戦の日の前日、京都は米機による大量のアジビラに動揺した。その中で父を亡くした中学 滋賀県東黒田村で終戦を迎う。陸軍高射砲第二十四聯隊勤務。毎日空を見詰めて、関西、裏 ~近畿地方~ 昭和十九年二月十日、豊川海軍工廠に徴用され、銃架工場フライス盤工等に当たる。翌二十
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