昭和万葉俳句前書集
6/19

ほうり投げてラジオを聴く。女子供は掌を腹を串刺しにされるという。私は恐ろしくて声も出なかった。私は国民学校初等科五年生だった。 中島飛行機資材課より、山梨県の塩山地下工場建設要員として常駐。塩山のどて腹に予定の十分の一ほど穿孔したところで終戦。当日、私は塩山を離れ、資材を集めに出て、出先の富士の見える所で玉音を聴いた。をし、その復讐心に燃えていた″軍国少年″にとって敗戦は大きな虚脱感をもたらしていた。敗戦はまた、満州に分村して行った親戚一家の全滅の報ももたらした。こんな山深い地にも戦争の傷痕は余りにも大きく深かった。各務ヶ原川崎航空機に出動。空襲頻繁となり学校の一部を工場化し、特攻機「飛燕」の翼の組み立てで、電気熔接の作業。空襲時は下級生の避難場所へ。本部附の伝令として活躍す。でした。聞きにくいラジオで玉音をはじめて耳にし、日の前がまっ暗になったことを生々しく記憶しています。即日応召兵は帰還し、志願兵は、米兵が進駐し武装解除が完了するまで掌に腹に穴されるとや敗戦日玉音や裏富士灼けて雲寄せず満蒙に果てし一家や草深くおみなとて生きる望みや草茂る 海軍志願兵の兵長として、静岡県藤枝航空基地に勤務していました。当日は油照りの暑い日 昭和二十年八月十五日当日は、岐阜県立多治見高等女学校四年生に在学中、学徒動員として 敗戦時、信州の山深い木曽谷で小学校六年生であった。叔父二人が敗戦を前に相次いで戦死 ~中部地方~ 父は病床に、私は母と草取りをしていた。近所のひとの「日本負けたよ」との大声に、鎌を

元のページ  ../index.html#6

このブックを見る