昭和万葉俳句前書集
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念じ、薬品不足の中で、精一杯の看護業務でした。人生唯一度の青春を捨てての明け暮れ、そして玉音の放送……。過ぎ去った日々をいとおしみ呆然となり、やり場のない気持ちをつと持っていました。口紅を、涙を流しながら思い切り引き、鏡を見つめました。同級生五、六人で無断で皇居前へ出かけました。隊が松根油を採る作業をしていた。そして敗戦。久しぶりに明々と点した自室に座して瞑想に耽った。 盆の月わたるのみなり箱根山 当時は新潟市に在住し、県立高女四年生。動員で学校工場の陸軍被服縫製に従事。四十度の熱がたびたび出ても働いた。家族は、肺浸潤で寝たきりの父、リュウマチで休学中の弟、兄は陸士。母と五人の弟妹は疎開中。近くに尼寺あり。が伏木港であった、乗船して征った部隊も清津沖で沈没したと知ったが。胸が痛む八月十五日である。終戦日が運命の分岐点となった。車の上陸に備えて蛸壺掘りに明け暮れていた。与えられた銃は弾の飛び出さぬ村田銃。帯剣の鞘は割竹二枚を合わせたものであった。玉音に湧花の涙青春惜しむ父の背も胸も残暑の汗凍る終戦日戦友のスコップ力なし叉銃して月の出の火を焚き初むる 石川県羽咋町、羽咋海岸にて。入隊後間もない初年兵。ろくな食糧も与えられず、専ら敵戦 立川航空整備学校を終えて、支那、朝鮮へ向かう同僚約百名と共に、輸送船を待っていたの ~北陸地方~ 当時私は神奈川の温泉町で、日本新聞会健民修錬所の指導員をしていた。近くの神社では兵

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