がまだ燃え続けているのを病室の窓から眺めて涙を流していた記憶があります。海軍志願兵として従軍中のことです。神風の文字と日の丸を染めた手拭いで、鉢巻をして頑張りました。B29が頭上を飛ぶようになると、工場から離れた場所に穴を掘り、部品をかくしました。玉音放送の数日前に、一家で長兄の出征記念撮影をしたばかりで、さぞ両親は、内心複雑な気持ちだったことと思います。 茨城県の谷田部海軍航空隊にて、予備学出(レーダー構内通信機器担当海軍少尉)二十二歳。飛行場で玉音放送を聴き、うなだれて庁合にもどる時、老兵曹長に肩をたたかれ、しっかりして下さい、と復興への務を説かれたことは、いまだに忘れがたし。また、林中に擬装して温存してあった零戦が、飛行場に整然と並べられ、パイロット達が最後のお別れ飛行をした。はればれと飛び交っていた情景が思い出される。汗にじむこの日直立不動の背汗の手にみとり甲斐なき香をたく緑陰に穴掘り部品隠しけり玉音放送戸外に出づれば雲の峰敗戦の空に零戦飛びおさめ ~関東地方~ 八月十五日当日、福島市郊外の自宅で、小学生の私は、家業の豆腐作りを手伝っていました。 私は、当時鶴岡市の飛行機工場の事務員でした。零戦や銀河の部品を作っており皆いつも、 終戦当時私は秋田市に居住、前夜の空襲。秋田赤十字病院に入院中でありましたで製油関係
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