レイテ作戦時陸軍航空部隊の主要作戦基地であったフィリピン国ネグロス島に二十年二月末米軍一個師団が上陸し、終戦まで陸上戦闘が続いた。航空関係部隊は一万二千余在島していたが、歩兵部隊は二個大隊(二千名)、のみにて対空、対戦車火器、食糧の補充もなく、餓死者、栄養失調者多数発生したるも、抵抗を続けつつ終戦を迎えた。った。何もない密林生活の始まりである。戦友は次々に倒れ、そして逝く。亡き戦友の冥福を祈る。—合掌。いることは、兵から兵へ、密やかに伝えられていたが、万が一の神助も期待の中にあった。しかし八月十六、突然に降伏の報を告げられた時、神風も神国日本も煙の如く消えていった。告げる上官は泣いていたが、兵等はただ黙するのみであった。その沈黙も瞬時にして歓喜のるつぼと化した。ガイ骨の如き兵等は、手を振り脚を鳴らして、「故郷へ帰れるんだ」と叫んでいた。 終戦の報聞く兵の目は乾き地から毎日空襲があり、日本軍高射砲隊は激烈な砲火で応戦した。この戦闘は終戦まで続いた。支那大陸から転戦し、死を覚悟でこの島を守備して来た。そして終戦。多くの戦友が戦病死した。私も生死の間を彷徨いながら、よくも生き延びた。最前線の軍の給与は、一汁または一菜で粗末なもので、兵達は近くの椰子林で、野生の山芋を探して掘り、これを食料とした。当時私の階級は陸軍曹長であった。爆音止みて終戦知った欠食兵大空に祖国と書きぬセブの夏山芋を掘りて補う兵の飯 支那から転戦して、フローレス島の司令部に着任した。この島はオーストラリアの連合軍基 ハルマヘラ島に兵として勤務。島は完全に連合軍に無視されていた。戦況は日々に悪化して あの時(昭和二十年)あの島(比島セブ島)は正に地獄であった。数十日にして勝敗は決ま
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