昭和万葉俳句前書集
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満州の炭砿に勤めていた。二十年五月召集され、広い満州の野を這い回る。八月一日動員令、行先は知らずただ行軍、前方から伝令が来て終戦を知る、その場に座ってもう動けない。をラジオで聴くまでもなく、敵側の情報で流されて、十五日を境として、適襲撃激しく、各地分屯隊の救出作戦で、多くの戦死者を出したことは残念でならない。作戦中、大隊本部医務室勤務となり、竹藪、赤松、檜等が密生する激戦の陣地に、薬品搬送の駄載馬を率い、生死を共にした。におりました。西安に近い最前線で、師団司令部と大隊本部の作戦通信をしていました。中にいた。当時歩兵少尉で、既に三年にわたる戦闘を経過していたが、同行していた通信隊の無線機をたよりに重大放送を知り、天皇陛下の終戦を告げるお声に聴き入る時、終戦を知らぬ前戦から交戦を続けているらしい弾丸の音が耳に入った。私は汗と涙が目にいっぱいになり、どうしようもなかった。行く当なき満州広し終戦日炎天下二日二夜の救援行戦さ終ふ駄載の列に柿青し住民の俄にかわる態度秋玉音も弾丸の響きも汗で聴く 昭和十七年一月現役入営以来、昭和二十年八月十五日に至った私は中華民国浙江省の山の 昭和二十年八月十五日当日私は、中華民国の嵩県の鷺兵団の百十大隊の師団通信の分遣隊 中華民国、西峡口西方の地形瞼峻、高山連立する山岳地帯の公路を撤退の途次、終戦となる。 北志那の私達の部隊は、山東省曹州道荷澤県荷澤に駐屯、私は部隊長の当番兵。終戦の玉音

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