昭和万葉俳句前書集
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佐世保港外松島基地で、震洋特攻隊員として待機中、終戦の玉音を聴いた。はじめの半信半疑が悔しさに、虚脱にと変わり、終わりには自暴に似た諦めとなった、しかし、帰するところは、父母の待つ故郷での将来を、遅くまで語りあった。終戦近く、九州に展開し、航測通信部隊に在ったが、たまたま赤痢に罹って、熊本陸軍病院に入院し、病院のベッドで終戦を迎えた。立った数基の「彗星」艦爆、最後の特攻隊である。私は、基地内にある防空壕内の通信所で、茫然たる思いでこれを聞いた。失意の中の決別であった。崖下に擱座。乗組員六百余名は、小学校と松屋寺に分かれて、二十日余りを過ごし、茫然として八月十五日を迎えました。日出町には、戦死者の慰霊碑が、建っております。一戦隊)から宮崎県都城の駅に着いた時、駅の貼り紙で終戦を知りました。酷暑の日でした。 一機もなく、総員特攻肉迫陸戦隊員となり、昼夜問わずアメリカ軍の九州上陸に備え、臨戦灼く砂に兵くずおれしみことのり夏の夜の形骸父母の死らざりき炎天に還らぬいのち飛び立てる蝉時雨戦ひ終へし日出の町終戦の貼り紙まぶし汗ぬぐう 当時、鹿児島県鹿屋海軍航空基地付近に散開。壕内生活の毎日。連日空爆のため、飛行機は 私は当時十七歳、陸軍特幹の飛行機整備兵で、沖縄奪還の先発隊として、茨城の本隊(五十 昭和二十年夏、行動中の特設空母「海鷹」は、別府沖にて被雷、日出小学校も間近い海岸の 昭和二十年八月十五日の夜、沖縄の空襲警報が発せられ傍受。大分航空基地からあえて飛び 学徒出陣で応召を受け、高崎東部第二十八部隊に入隊。以後転属を重ねて陸軍軍曹となり、

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