昭和万葉俳句前書集
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広島市内で、広島県立第一中学校の二年生であった私は、原爆で行方不明となった家族の消息を尋ねて、焼け跡をあちこち探し歩いていた。爆に遭った人々がぞろぞろと逃げて村にのぼってくる姿が後を絶ちませんでした。両側の山々に挟まれた村が八月六日には朝だというのに、黒雲に覆われ、やがて黒い雨、それから赤い空となったこと。早退して疎開先の宿から皆で不安いっぱいで眺めておりました。その思いも訳の分からぬままに子供心に終戦日を迎え、明日からは戦いがない、もうずっと先までないという感慨。静かなとても暑いそして太陽のとても明るかったこと、今でも鮮明に覚えております。た私は引率責任者だった。八月十四日正午前。アメリカ軍の爆撃を受けた。幸いに私の学校は無被害だったが隣りの高女の生徒に多数の被害があった。 終戦当時、兵団は徳島県の吉野川河口を挟んで、南北の海岸線に貼り付いて陣地を構築し、沖縄より一挙に吉野河口平野に飛行場を設定して、日本本土を席捲せんとする敵の企図を破砕する体勢を有し、私はその一隊長として勝浦郡にいました。帰郷の期待とが微妙に交錯してやたらのどが渇いた。全身のやけどにうじが列つくる終戦日疥癬の師も床に坐す遺体焼く異臭に秋の戸を鎖ざす終戦の夕阿波踊爆発す その日、私は船舶特幹生として瀬戸内の小豆島で訓練中の十七歳だった。敗戦のショックと ~四国地方~ 昭和二十年七月頃から山口師範学校の学徒動員で、光市の軍需工場にいた。同校教授であっ 国民学校六年生の夏、集団疎開先の広島県安佐郡で終戦を迎えました。十日ほど前の広島原

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